昭和48年03月18日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
盗人と言われても、乞食と言われても腹が立たんようになる。それにはシッカリ信心の帯をせよと仰る。シッカリ信心の帯をしとかなきゃ出来ることではない。お道の信心は、総生神への道だという風に言われます。生神金光大神、その生神金光大神が信心の頂点であり、それを焦点にして信心を進めて行くのだという。それも誰でもが、その気になれば出来れる。誰でもがその道を辿って行けれる道を、容易う説いておられるのが金光教祖だと思います。
ですから、例え乞食だと言われても泥棒だと言われても腹を立てんで済むと言う事は、まあ言い替えますと、いわゆる一切の事にお礼が言えれると言う事。大和心といういわゆる和賀心というのは、一切の事にお礼が言えれる心だと。どの様な事を言われても、どの様なことがあっても、どの様な場合であってもそれにお礼、だからお礼を言うてさえおればよいという訳なんですけれども、それは実際問題に取り組むと、それは大変難しい。けれども、その気になると言う事は、信心の帯をしとると言う事だと思う。
もう腹は立てんぞと、もう本気で腹を立てん事にもう決めたらそれが出来る。しかもそれが大変有難いことが分かる。しかもその事が必ずおかげにつながる事も体験できる。だから云うなら腹の立つような事が起こって来るのは一つの楽しみにすらなってくる。いやあこれで又力が受けられる。これで又おかげが受けられると云うのですから。文男先生やら喜代司さんあたりの場合なんかは、やっぱりこの一点張りでおかげを頂いておるという感じがします。
だからその事だけではいけない。全ての点に、例えばお礼が言えれる様な心を頂かせて頂くことが信心。それが生神への道。そこでおかげというものが、難儀というものを感ずる、そして神様と言う事になるのですから、大体信心は分かっても分からなくてもお取次を頂いて、お願いをすることに依って、金光大神のお取次の働きというか、お取次のお徳に依って助かることが出来ますね。金光様の御信心は先ずそこから入る人が多いです。訳は分からんなりに。
昨日も或方がお礼に、二、三日前にお願いに見えておった。それで話しても分からんのですから、とにかく私が今日を境にお願い致しましょう。ですから変わったことが起こってきたらおかげと思うて又参っておいでというたら、昨日参って見えられました。それが病人さんのことでしたけれども、全然食べ物が受け付けない。食べるけれども全部吐いてしまう。ところがねもう昼頃参ってきた。
それから夕方お食事を与えたところが治まる様になった。御神米と一緒に御飯を炊いて、それから頂かせたら治まるようになった。二日間続いた。治まってそれで昨日お礼に出てきた訳です。だからこれは、いよいよそんなら信心しておって変わったことが起こってきたら有難いと心得てと仰るから、ほんに神様ちゃ有難い方じゃあると思うて、これから一生懸命話も聞かにゃいかんですよ、お参りもして助けて頂かにゃいけんですよというて話したことです。
だからそういう意味でのおかげ、だからそういうおかげだけに終始しておる人も金光様の御信者の中には有るのです。何か困ったときに走り込んで、どうぞお願いしますというだけが信心のように思うておる。それでも結構やっぱりおかげを受けておる。次にはね、例えば昨日は合楽会でございましたが、野口さんの体験発表があっておりました。素晴らしいなと思うて聞かせて貰うた。
二、三日前に熊本に行っております娘さんが、お孫さんが大変な熱発で医者に行こうかと思うたけれども、やれやれ待て待てで兎に角合楽に電話をかけてお母さんにお取次を頂いて貰おうと思うた。それからすぐ電話がかかってきたから、お母さんは電話を受けて早速お願いに見えた。丁度久富先生がお取次をされた。そんならすぐ御神米を送ってやりなさいというて、御神米を下げて頂いた。
けれども今から御神米ども送りよったんじゃ、とても間に合わんから、もうこの意気で御神米持ってやらせて頂こうと思うた。それから熊本迄やらせて頂いた。先生、そのおかげを頂いてというて話をなさいますのに、久美子さんといいますが、記念祭の時の御直会に和賀心を創るという御本を頂いておった。頂いておるなりに読みもせんなりに只しまい込んであったから、ほんにこげん時なっとん読ませて頂こうと思うて読みだしたところが、もう一時間半、一気に読んでしもうた。
そして一気に読んでしもうとるうちに何回も何回も感動した。親先生の御修行時代やらもう確かにあの本は読みだしたら読んでしまいたい感じのする御本ですね。そして有難い有難いで感動して読んでいる内にです、子供さんの熱が平熱とまではいかんけれども、あんなに高かった熱が下がった。本当に有難い。そこへお母さんが御神米持ってやって来た。それから御神米も頂かせる、それから三時間ばっかしおって信心話をして帰って来るときにはもう平生と変わらん様になった。
例えばこういうおかげの、ひとつのおかげの道すがらというか、例えばお母さんが熊本まで御神米持ってでも、とにかく送りよったんじゃ間に合わんというので、お取次を頂いて行こうという、そういう子供にかける親の思いが、一心でそれに表される。その一心がです、そんならたまたま読んでなかった、和賀心時代を読ませて頂こうという気になって一気に読んで感動しておる。有難い御本だというて、そうしておる内に、子供さんの熱がどんどん下がってきた。
そこ辺にです、何とはなしに神様のお心を、神様という方は大体こんなお方だなあと感じられますですねえ。心が神様に一心に向かう。それから御教えを頂く。本当にそうだった、本当にそうだったと心に喜びが湧いて来る。もうその感動が子供の、いわゆるお祖母さんの信心が、母親の信心が、いわゆる孫であり子供であるその民生さんというのですが、民生さんの体の上にその様にして現れておる。
だから分かるところが分かりゃおかげ頂きますねえと、みんなが言いますねえ。だから分かるところが分からんでも頂くという時代。分かるところが分かればちゃんと不思議なおかげになって来るというそういうおかげ。昨日私はここで座らせて頂いて大変難しいことを頂いて、頂いたけれども私も自分自身で訳が分からなかった。それを文章にするとこういう事になる。もう大変に難しいことなんです。それはもう便箋何枚も書かなければ分からない様なことを断片的に頂いて纏めるとこう言う事になるのです。
「相対を越えねば絶対に到らない」と、今日私が皆さんに聞いて頂こうと思うのは、丁度この五十八節を頂いてです、例えば泥棒と言われても乞食と言われても腹が立たん程しの心なのです。これにはね、絶対のものがなからなければ出来ることじゃない。いわゆる神様の絶対愛と言った様なものを信じなければ辛抱されることじゃない。相対を越えねば絶対には到らない、と言う事はどう言う事かと、私は今日五十八節を頂いてから、ははあこれはこういう素晴らしいことだと思わせて頂いた。
それはおかげを対照としていないと言う事です。御利益というものを対照としていない。そこんところを越えて信心とは我が心が神に向かうのを信心というのじゃ。自分の信心姿勢というものがです、信心とはおかげを頂くことではなく、信心とは我が心が、いわゆる生神に向かって、向かうていくと言う事が信心なんだ。だからどういう泥棒と言われても乞食と言われてもそれが神へなる道の、それがいうならば道すがらであり、いわゆるいうなら生神への飛石伝いの様なものだと分かる時に。
一切を有難い神様の御神意、御神愛に間違いはないという。次にですね、「絶対に徹すれば絶対の他に何物もない」絶対に徹すれば絶対の他には何にもないと。まあこれは日頃言ってる事だけれども、昨日次々とヒントを頂いてこういう言葉にならせて頂いた訳ですけれども、いわゆる一切が神愛と言う事なんです。いわゆる一切にお礼の言えれる心なんです。これがそんなら絶対神愛、一切が神愛以外には何ものもないと分からせて頂く時にです、絶対に徹すれば絶対の他の何ものもない。
これは難しい言葉ですけれども、難しい言葉の内容が分かると非常に楽しいものです。「相対を越えねば絶対には到らない」「絶対に徹すれば絶対の他の何ものもない」只有るものは有難いと云うものばかり。高橋博志先生のお言葉の中に有ります、「御取次を頂いて起こって来ること一切善いこと悪い事皆良い。御取次を頂かずして起こって来ること善いこと悪い事皆悪い」と、これはもう徹した言葉です。お取次を頂いて起きて来ることなのだから、それを神愛おかげとして受けれる。
それにはね、そんなら相対を越えねば、おかげと言った様なもの、御利益と言う事をです、いうものを対照にした信心ではない。そこを越えねばです、絶対には到らない。
私は金光様の御信心はこの絶対の境地に到ると言う事が信心の様です。それが生神への目指しである。難しい事ではない。只その気になってそういう姿勢を持って信心の稽古をすると言う事なんです。
おたがい皆さんの場合なんか、その相対を越えねば、絶対にはいたらないという、その過程を通ってはおると思うですね。皆さんの場合。けれどもやっぱ時々はお「ひゅぎん」(おこずかいの意)を頂かんとです、神様の間違いなさと、言った様なおかげを頂かんと承知しない。それでようやく保たれていると、言う様なところでしょうけれども、そう言う事をね、抜きにした、もう信心とはわが心が神に向かうのを、信心というのじゃという大改まりです。
信心が神様の方へ、向きを変えてしまったところからです、絶対に到る道が開けて来る。絶対の道が開かれてきたら、もう絶対の他何ものもないというのはね、もう有り難い勿体ないの、世界のみしかないと言う事です。ひとつお互い、絶対に徹しさせて貰うおかげを、それをここではそんなら容易う、先日ここで青年教師会があった時、講師に学院長であるところの、出川先生が見えられて、昨日そのお礼の葉書が来ておった。こう言う事が書いて有る。
「十一日、十二日お引き寄せを蒙りまして、その節は色々お世話様になりましてございます。山も石も木も焼物も人もしきりにものを想う事を勧めます。前後駅頭までも、おみやげの品々御礼申し上げます。酒と銘茶銘菓を通して限りない事毎に及びます。御礼まで申し上げます。皆様に宜しく」と有ります。山も石も木も焼物も人もしきりにものを想うことを勧めますと、大変意味の深いことですね。
私は今度お話を全然致しませんでした。只お食事の時の客殿で一緒にお食事をさせて頂くと云うことでしたけれども、もう大変おかげを受けた。それこそ見るもの聞くもの一切の中から語りかけておることを感じたと。サントリーの上等のウイスキーを頂いとりましたから、ウイスキーとそれから八女の玉露とそれから博多の鶏卵そーめんとお下がりが有りましたから、それをおみやげにさせて頂いた事が、そういうおみやげを通して限りない事毎に及びますと。
私はそういう様なものが、このお広前には有ると言う事。そういう限りないものに触れて行けれる何物かが有る。たった二日あまりの間にです、それを感じとって帰っておられると言う事が素晴らしい。先生今日は大変な事をあんなに容易う説かれましたけれども、大変な事でございましたねと言われました。二日目の朝の御理解の事です。それがです、例えばどう言う所からかというと。
私の場合絶対に徹すれば絶対の他何ものもない。と言う様なところが段々分かりかけておるからじゃないかと思うのです。だからそれは絶対のものを与えられる、与えておると。それは言うて聞かせるとかどうと言う事ではなく、いわゆる無言の中に合楽にある全ての、いわば木も石も焼物もその中から語り取らせて頂ける神意、神愛の一つ一つにこもっておる事を感じ取らせて頂いたという訳なんです。
そういうおかげを私もこれはいよいよ目指させて貰い、いよいよそれを、高度のものにしてゆかなければならん事は、勿論ですけれども、お互いの信心の目当てというものがです、そこに置かれなければならん。シッカリ信心の帯をせよと、シッカリ信心の帯をさせて頂いたらです、そういう道を辿らせて頂くことが楽しゅうなって来る。それを信心の帯を緩めておるから、いよいよのところで失敗をする。いよいよのところでおかげにならんでしまえるのです。
今日は五十八節から、いわば三段階に分けておかげの世界を聞いて頂いた。そして私共が絶対の道を体得する。それには先ず段々おかげを頂いてです、相対を越えねば絶対には到らないと言う事。絶対に徹すれば絶対の他何ものもないという程しの所迄お互いの信心を目指させて貰い、もうこれから先は又限りがないと言う事。自分の思う様になれば嬉しい。思う様にならなかったら、もうガッカリする。そういう信心から脱却しなければでけん。そこを頂く為にはシッカリ信心の帯をしなけりゃならんと言う事です。
どうぞ。